カウンセリングの中でもかなりの頻度で登場する話の一つに
「誰かに愛され、必要とされている私にこそ価値があると思うんです」
というものがあります。
すなわち「愛されていないと不安」「愛されたいんです」というお話です。
「誰か愛されている私に価値がある」
「価値ある私が愛されている」
この2つの思い、一見するとどこか似ているようですが、実はその意味がまったく違うものなんです。
前者は手放すことで恋愛や夫婦関係がより良くなっていきます。(大人限定の話)
後者は受け止めていくことでより強固な絆を感じることができるようになります。
言葉としてはちょっとした違いなんですが、その中身はかなり違うものなんですよね。
ということで、今日は「誰かに愛されている私にこそ価値がある」という気持ちについてコラムにします。
よろしければどうぞ。
※今日のコラムはきっと後日書き直すと思いますが、書き直したらそのコラムもまた読んでくださいませ。
Index
「誰か愛されている私に価値がある」を手放すべき理由
さて、僕たちは「愛されたい」生き物であり、「誰かに必要とされたい」と思う生き物です。
こういった「愛されたい」「必要とされたい」という気持ちは欲求なので消えることはありません。
逆に「誰にも愛されず必要とされない」となれば、途端に傷ついてしまうこともありえるでしょう。
また、僕たちが子供の頃は、この「誰かに愛されること」「誰かに必要とされていること」で自分の存在意義を確認していたわけです。
だから多くの方にとって「誰かに愛され、必要とされる私」には「価値を感じやすい」わけです。
そう考えると「誰かに愛されている私には価値がある」という考え方自体、まぁ間違いってわけではなさそうなのです。
なのにどうして「手放すほうがより幸せになれる」のでしょうか。
「誰か愛されている私に価値がある」の限界
実は「誰かに愛されている私に価値がある」という思いには限界が存在します。
自分の価値を他者の気持ちに依存するという限界
誰かに愛されている私に価値がある、ということは
自分の価値の判断を他者の気持ちに依存する、ということです。
これは「自分の存在理由を他者の気持ちに委ねる」という意味になります。
いわば「他人が愛してくれない自分には価値がない」と自分で制限をかけてしまうわけですね。
つまり、自分の価値を自分で(主観的に)決定する意思を持てない、という限界が出てくるのです。
他者に与えられないという限界
実は「誰かに愛されている私に価値がある」と感じているときほど
他者との間で、絆や信頼で繋がれていないことが多いのです。
自分が「誰かに愛されている私に価値がある」と感じているとき
その自分は他者に愛されることを期待し、自分で自分や相手を愛することを止めていますよね。
他者に愛を期待し、自分で自分を愛さない態度をとっている。
この状態で、他者と絆や信頼で繋がることはかなり難しいでしょう。
もちろん「相手のことが好き」とか、「相手のことを素晴らしい」などと感じることはきっとあるはずです。
自分を愛してくれる相手を尊敬し、その価値を認めることもあるでしょう。
ただ、相手の気持ちを心から受け取って信頼し、自ら相手に対しても信頼を向けているかというと、実はそうではないことが少なくないのです。
なぜなら「愛されている私にだけ価値がある」と感じているから。
それは、ありのままの、普段通りの自分が、他者に信頼や尊敬、好きや愛を届けても、そんなに価値はないだろう、と感じているからに他なりません。
相手の愛する行為がなければ、信頼も尊敬も好きという気持ちも相手に届けることができないわけです。
つまり、自ら他者に積極的に関与したり、与える、愛するといった心からの表現を伝えることが難しくなっていくのです。
だから、より他者からの愛や承認を求め、それによって自分の価値を感じようとするわけです。
*
このような限界がある以上、できれば「誰かに愛されている私に価値がある」という観念は、悪くないんですけど、手放すことにメリットが出てくると僕は考えています。
「誰か愛されている私に価値がある」を手放す方法
誰かに愛されている私に価値がある。
これは、過去の自分が必要とし、抱えた気持ち。
誰かに愛されることで、自分の座標を確認し、存在していることを確認し、自分に意味があることを確認していた時代の名残です。
逆に、大人になった僕たちにとっては、この考え方が自分の制限になることのほうが圧倒的に多いはずです。
なぜならば、大人になった僕たちは、誰かを愛することで、その自分の意味を感じ取っていくものだから。
誰かを愛し、何かに専念し、何かに貢献していくプロセスの中で「自分」という存在を感じ取っていくものですからね。
このように考えて
「誰か愛されている私に価値がある」という古い価値観(悪い価値観ではないよ)からの卒業してみよう、と思ってみましょう。
もし、素直にそう思えたら、おそらく卒業することはそう難しくないはずですから。
具体的には、心のなかで古い価値観に「今までありがとう」とつぶやきながら、古い価値観を手で空中に手放すイメージを作ってみてもいいかもしれませんよ。
何度も何度も手放して心がすっと軽くなったら、きっと手放しが進んでいるんでしょう。
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その上で、新しい価値観を手に入れるように意識してみましょう。
それこそが「価値ある私が愛されている」というものです。
「価値ある私が愛されている」と感じるために
もちろん今の自分にどれだけの価値があるかなど、なかなか分からないかもしれません。
「どうすれば自分の価値を感じられるのか?」というご質問は、僕のもとに本当にたくさん届いていますしね。
そんなときは、こう考えてみましょう。
「価値ある私が愛されている」と感じる目的は、自分の価値を認めることだけでなく
「私を愛してくれる人の愛、その価値を守り、意味のないものと扱わないことでもある」
自分に愛される価値がないと感じながら、誰の愛を受け取ったとすれば
きっとあなたは相手の愛の価値を守れないのです。
なぜなら、相手は「価値のない自分を愛した」ということになるのだから。
かなり強烈な言い方をすれば
「相手は見る目がなくてたいして価値のない自分を愛した」
という構図を自ら作り上げてしまうんです。
これでは、自ら相手の愛情の価値を下げているわけですから、せっかく愛してくれた恋人、家族、親、友達に罪悪感を感じますよね。
その結果、愛や信頼、絆で繋がれなくなってしまうこともしばしば起こります。
だから、もしあなたが「自分にどれだけの愛される価値があるかわからない」のであれば
自分を愛してくれた人、その愛や好意の価値を守るために
「価値ある私」
を探し出そうとしてみてはいかがでしょう。
ここでの「価値ある私を見出すこと」は、間接的に与える行為となります。
つまり、あなたが本当に大切な人の気持ち、信頼できる人の気持ちを守りたい、愛したいと思う気持ちを持つことがポイントです。
それを心から願えるならば、そのとききっと「価値ある私」を見出すこともできるはずです。
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人は完璧じゃありません。
価値ある自分とは完璧な自分ではありません。
至らないところがあっても、誰かを愛し、与えることができるならそれで十分価値ある自分なのです。
あなたがあなたを愛せなくても、あなたを愛してくれる人の気持ちになってみればよく分かるはずです。
私を完璧な存在として愛しているわけではない、と。
私を私として愛してくれているのだ、と。
そのつながりを感じ取ることができたら、おそらく
「価値ある私が愛されているんだ」
と思え、そう思わせてくれた誰かに心からの感謝を伝えたくなるのではないでしょうか。
ね、なんか素敵な関係になれると思いませんか?
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