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子供をどう愛するか、と考えてみたあれこれ話

今日は僕自身の考えや体験をコラムにしてみようと思います。
いつもの心の話というよりは、子をどう愛するか、という部分で僕自身が体験した葛藤について、少しだけまとめてみたくなったのです。
僕はカウンセラーというお仕事をさせていただいていますが、小学生の娘の親でもあります。
娘の存在がいかに尊いかを実感する毎日です。
そして「娘を愛すること」について考える日々でもあるのです。
親の過去は子の今に映し出されることがある
僕は両親から「生まれてきてくれてありがとう」と伝えてもらった経験がない人間ではあるんです。
もちろん、親がそう言えない事情も理解できていますし、親が僕を愛していたことも受け取れています。
ただ、僕という人間は、子供の頃から長い間生きづらさを抱えていて、残念ながら「生きていてよかった」と思える子供時代を過ごしてはいないのです。
特に、生きづらさを感じていた頃、「僕は生まれてくるんじゃなかった」と日々思っていたことを思い出します。
それも自分であり、自分の一部です。
ただ、長い間僕は
「これからどう生きていけばいいのだろう」。
「どうやって社会の中で生き抜けばいいのだろう」。
そんな漠然とした不安を抱え、いつも萎縮し怯えながら過ごしていたことを思い出すのです。
そして、その僕自身の体験は、一つの投影となり、娘に映し出されることがあるんですね。
自分と娘は違う存在だと理解していても、ふとした瞬間にそれが映し出されることがあるんです。
「もし娘が僕と同じような葛藤を抱くとしたら・・・」。
そう思うだけで胸が締め付けられるような感覚を覚えるのです。
そして、この感覚を感じることが怖すぎて、実は僕自身、長い間、子供を持つことを恐れ続けていたのです。
僕という人間は当然ながら未だとても未熟な存在なのです。
今は、自分の体験を娘に、そして人に映し出しながら、その事実に気づき、せっせと取り戻しながら生きている、みたいな状態だといえます。
自分の葛藤は親の欲として現れる
「親ほど欲深いものはない」。
そうある人から聞いたのは、まだまだ娘が言葉も喋れない頃の話。
ですよね、と思いつつ、自分にはそんな欲はないはず、と思いこんでいたことを思い出します。
が、娘が成長するたびに僕の中で出てくるのです。
「親の欲」というものが。
ありのままの娘を愛してあげたい、という気持ちと共存する欲、です。
娘にはこう育ってほしい、こんなふうになって欲しい、という欲、いや、期待がムクムクと湧き上がってくるのです。
それと同時に「子供に期待をかけてはいけない」という思いも出てくるんですね。
親の期待で子供を潰してはいけない、と考える自分もまたいるのです。
そんなとき、僕はふと考えました。
親の欲の正体とはなんだろうか、と。
少なからず僕が抱く親としての欲や期待の正体とは、と自分の心の中を探ってみたのです。
すると、その理由の一つに「かつての自分の存在」が影響しているように思えたのです。
親の自己概念が子にもたらすもの
残念ながら、僕という人間は自分をこの上なく最高の存在だと思える人間ではありません。
自分のことが好きか、と聞かれれば、今でこそ好きだと言えますが、気に入らない部分も多々あります。
そんな自分をひっさげて生きているわけです。
ただ、様々な事情から、自分を愛するという意味では、少しばかりの弱さを抱えているのです。(そんな自分も自分なのですけれども)
このような親の自己概念は、子供に対する関わりにある程度影響を及ぼすだろう、と僕は考えています。
親自身が自分を不十分な存在と捉えている分だけ
愛ある親であればあるほど、子供の存在や価値を信頼するのではなく、心配するだろう、と考えている部分があります。
子供のことを愛おしいと感じているのに
「この子は自分をちゃんと好きだと言えるだろうか」
「この子は自分の尊厳をちゃんと感じて生きていけるだろうか」
そんな不安がよぎることもあるのではないか、と思うのです。
そういった不安は多く「この子はちゃんと生きていけるだろうか」という形になるものだろう、とも思うのです。
が、これは親が「十分な親でありたい」と思えば思うほど、
裏を返せば、今の自分が不十分な親だと思えば思うほど強くなるものだろう、と考えます。
そして、その不安が「子の未来を守りたい」という気持ちを刺激するとき
結果的に、子供に受け取って欲しい思いが湧き出す
つまり、親の期待や欲に変わるのではないか、と僕は考えている部分があります。
親の欲や期待とは
子を愛する気持ちと
子供を通して感じる自分自身の怖れ
そして親が自分に向けている期待の大きさの分だけ生じやすいのではないか、と僕は思うのです。
ただ、期待は失望の母、と言われるもの。
つまり、僕たちは親としての自分に期待をかけ、その期待通りではない親としての自分に失望し、その失望を持て余したとき、子供に欲をぶつけてしまうのかもしれません。
そのとき、親と子の心は離れてしまう、なんてことが起きるのかもしれません。

子供を愛するということは「子供も親も今での十分な存在だ」と捉えることなのかもしれない
僕は
「親の欲ではなく、子を愛するとは一体どういうことなの?」
なんてことをよく考えます。
僕としては、
子供を愛するということは「今目の前の子供を十分な存在だ」と捉えることだろう
と考えています。
いわば「生まれてきてくれてありがとう」です。
僕なりの表現を使えば
「今の君が最高に素晴らしく、今君がそこにいることだけで十分なんだ」
と心から感じ、伝えることなのでしょう。
今、我が子がどのような状態であっても、その子を十分な存在として認め、想い、抱きしめる。
多くの親御さんの本音って、そこにあるのではないでしょうか。
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ただ、この仕事をしていると、親御さんから「なかなかそう言えない」「心からそう伝えられないでいる」といったお声を伺うこともあります。
それこそとても切ないお気持ちとともに。
では、なぜ心から子供の今を愛することができなくなるのでしょう。
その答えの一つとして、僕は
「親である自分を愛せていない・自分に失望している」
という部分が考えられるのではないか、と思うのです。
もちろん、親としての責任を果たすことは大変重要なことです。
ただ、親と子、人と人のつながりは、責任の概念だけで成立しているものではないのです。
とても有機的な、リアリティを伴った「心のつながり」がそこにあって、はじめて分かり合い、愛し合うことができるわけです。
つまり、親が「子供との心のつながりを持っていい」と思えるかどうか、という部分はとても重要な要素なのだろうと思うのです。
それこそ、自分は愛されるにふさわしく、今も誰かに愛されながら生きていると、感じ取れているか。
それこそが、子供に
「今の君が最高に素晴らしく、今君がそこにいることだけで十分なんだ」
と伝えるために必要なことのように僕は思うのです。
もちろんそう思えない場合もあると思いますし、その状態を僕は批判したいわけじゃありません。
ただ、もし
「大丈夫。君も僕と同じように、愛されながら生きていけるよ。」
そう言えるなら、
ほんとうの意味で「子供を愛している」という感覚が得られるのではないか。
そんな気がしてならないのです。
そういう意味では、親が癒やされることもまた、子を愛するために大切なことだと言えるかもしれませんね。