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優しい男性がお好みですか?
今日のコラムは普段のテイストではなく、「アサノのコラム」仕様の、大した意味のない話をさも意味があるように見せかけるように書き綴るコラムである。
まさに僕の雑感と言えばそれまでなのだが、今日は久しぶりにそんな記事を書いてみたいと思ったのだから仕方がない。
まぁこう、毎日寒くなると、何故か普段と違うことがしたくなるのである。
もちろんこれも取ってつけた言い訳である。
寒いから普段と違うことがしたくなるなんてことはない。
これは僕の気まぐれ、思いつき以外の何物でもない。
*
恋愛や婚活にまつわるご相談をいただくとき、かなりの確率でお聞きするある質問がある。
それが「どんな男性がタイプなんですか?」という、ある意味厄介な質問でもあり、しかし伺わねばカウンセリングを始められない質問でもある。
ちなみに、普段から本音を抑えている人ほど、カウンセリングの場でもなかなかすっと言葉として出てこない方も少なくないようなのである。
それはさておき、この「どんな男性が好きですか」の質問に対する答えは実に千差万別である。
どこか現実的な考えをしている方ほど「ちゃんと働いている人」とおっしゃる場合がある。
もしかすると夢を追う彼や働かない彼を好きになり、その彼をせっせと養ったにもかかわらず、なんて経験をされた方もいるのかもしれない。
逆に「あたしが養ってあげるから、別にそこまで稼いでなくてもいいし」とおっしゃる方もいる。
仕事柄、僕はその言葉の裏を探ってしまう非常に厄介かつ面倒な癖を持っているのであるが、ここはノーコメントとしておきたい。
また、即答で「強いオトコですね」「怖いもの知らずですね」という戦闘民族、いや、エネルギーが漏れ出ている方もいる。
やはり強くてビビらないオトコは魅力的なのですよねぇ。
ただ、僕の経験上、最も多い答えはやはり「優しい人」であり、それは今も昔も変わらない。
「男性に愛されたい、優しくされたい」という、このご時世ではなかなか他人に言えなくなってしまった本音を、カウンセリングの中では素直にお伝えいただいているのではないだろうか。
そんな余計な推測をしてしまうほど、「優しさ」は恋愛や結婚生活においてとても重要な要素なのだろうと考えることもしばしばなのである。
たとえ、ちゃんと働いている人がいい、だとか、強い男が好きとおっしゃる方でも、そこで求めているのは優しさなのだろうと(当然のことながら)実感することが多いとも言える。(そうじゃない人もいますけどね)
つまり「優しい人がいい」という回答は、ある意味で普遍的、言い方を変えればあまりに平凡な感じがするが、しかし変わらぬ伝統の味的な回答とも言えるのかもしれない。
優しい男と優しさは違うぞという問題提起
一方、昨今の男性の変化が影響しているのであろうか。
女性の皆さんから「男の人って何か勘違いしてないですか?」という粛清、もとい、ご指摘をいただくことも増えたのである。
それこそが「優しい男と、優しさは違うぞ」というご意見なのである。
要は、もめない、意見しない、戦わない、相手の意向を優先する、という姿勢を見せる男性が悪いわけではないし、平和主義的な意味合いでは価値があるのだが、「それは求めている優しさではない」という意見を伺うことも増えているように感じている。
言い方を変えれば
「優しい男であればいいと思っている男性が増えているんじゃないか」
という非常にカウンセリングの中で答えにくい問いを僕に投げかけてくれているのである。
これは
「確かに男性からの優しさを求めているが、優しい男だからといって常に望ましい恋愛関係を構築しているわけでもない」
という指摘だと思うのである。
このようにお伝えくださる方ほどリアルに感じた経験がおありなのではないか、と、また余計な推測をする自分がいるが、ここでは全力で自主規制をかけることにする。
つまり、この話をあえて深堀るとしたらこんなことが言えるのではないだろうか。
おそらく「優しくて性格がいい人は好まれやすい」ということは事実なのだろう。
だからその逆の「優しくなくて性格が悪い人」がもう気になって気になって夜も眠れない(なんであの人はあんな感じなんだろうと考え始めると止まらない)ということも十分ありえるだろう。(刺激が強いので惹かれることが多いだろう)
しかし、長く共に生きることを考えるなら優しくて性格がいい人が選ばれやすいのだと思うのである。
ただ、その優しさや性格の良さがどのように機能しているか次第で、恋愛がうまくいかないくなるのではないか、という非常に興味深い問題提起のように僕は思えてならないのである。
ということで、ここからは優しさだの、性格の良さという言葉が何を意味しているのかについて、僕なりの考えをまとめてみたいのである。
その優しさが「自分の価値観」なのか、それとも「相手に与えたいこと」なのか
僕の考えを先にまとめてしまうとしたら
その優しさは「自分の価値観として発信されていること」なのか
それとも「相手のために与えたいこと」なのか
その違いで意味はガラッと変わってくる、である。
例えば、自分自身が優しい人間でありたいと思うことは、それも大切にされるべき一つの価値観であることは間違いない。そこに余計なツッコミを入れる必要はないのであろう。
が、恋愛や結婚生活など「自らが選んだ愛する人との関わり」を前提とした関係の中では、ちょっと意味が変わってくると僕は考えるのである。
要は「自分がこうしたいから・こんな自分でありたいから」という理由で相手に優しくしているならば、さてどんな結果が生じやすいだろうか、という話である。
そのような優しさを向けられた相手は、どこまで「これはパートナーから向けられた私への優しさなのだ」という認識が持てるのだろうか。
そんな非常に厄介な問題が出てきそうなのである。
私のパートナーは誰にでも優しくする人だから心配で・・・
例えば、恋愛や結婚にまつわるご相談の中にこういったものがある。
「私のパートナーは誰にでも優しくする人だから心配で・・・」
このようなお悩みはかなり悩ましいものになりやすい。
なぜなら「彼の優しさ」を批判すると揉めることが多くなるからだ。
誰にでも優しくすることがどうのこうのではなく、要は、彼の良さを否定していることになってしまうのだ。
そんなことを望む人も少ないだろうが、しかしこのような悩みを持つと、つい相手の良さを断腸の思いで(そうするしかないと思い)彼の良さをDisってしまって揉めるのである。
もちろんDisった側も悲しい思いをすることになる。
このようなお悩みをお持ちの方ほど「もっと私に自信(自己肯定感や自分軸)があればいいんですよね」とおっしゃる方も少なくない。
確かにそれはそうだ。
が、そういい切っていいことなのだろうか、と僕は常々考えている部分がある。
なぜなら
「せっかく私だけを見て優しくしてくれるパートナーと出会ったのに、その人が他の人にも同じ優しさを向けているとしたら、自分に自信を持つことだけでその気持ちが収まるなんてことが常にありえるのだろうか」
と考えてしまうからである。
つまり、我々は好きな人、パートナーの優しさを得たい(なぜならば、こちらも心から相手のことを大切に思っているから)と思うことがあっても不思議ではないのではないか、ということである。
それが自信や自己肯定感だけの問題と言い切れるのか、と僕は考えてしまうということである。
*
よって、このようなお悩みを抱えておられる方の中には、次のような思いを抱えておられる場合が少なくないのである。
「彼は優しい人。私にも優しい人。そして誰にでも優しい人。誰にでも優しくできるなんてすごいこと。ただ、彼の優しさが私だけに向いているわけではないと思うと、ちょっとまて!と思う」
確かに彼の優しさは間違いなく私に向いているのだから、それをどう捉えて相手にどんな反応を返していくかが大きなテーマでもある。
が、誰にでも優しい彼という部分に着目すると、どうだろうか。
彼の優しさが「多くの人に向けられている心から与えたいこと」なのか
それとも「自分の中のこだわり、こうありたい自分を示す」のか
その違いで話の中身がガラッと変わってくるのである。
もし、彼の優しさが「自分の中のこだわり、こうありたい自分を示す」のであれば、そばにいるパートナーの不安は強まるだろう。
彼は「誰にでも優しくしたい人」という部分を変えるつもりはない、つまり、私の気持ちが届いていないと感じやすくなるからだ。
だから、彼の優しさを否定したくなくとも、「誰にでも優しくするのは止めて」と言いたくなるはずなのだ。
それは独占欲からくるものではなく、「彼はこっちを見ていない」という不安から生じるものともいい切れず、突き詰めていくと「私の気持ち(愛情や好きという気持ち)が相手に届かないと感じる」からこそ生じる行動だと見ることもできそうなのだ。
逆に、彼が、自分の意志で、彼女に伝わるように「君に優しくしたいし、与えたい」という姿勢を見せているなら(彼女側も彼の真意を理解しているならば)、彼女側は「私の気持ちは彼に届いている」と実感できる可能性が高いのである。
だから、彼が他の人に優しくしようとも「彼って誰にでも優しくできるすごい人なんだよ」と思える可能性が出てくるのではないだろうか。
それでも「彼には私だけを見ていて欲しい」と思うなら、もしかするとそもそも優しさを受け取る側に問題があるのかもしれない。
例えば、「好きな人を束縛したい」という恋愛スタイルなのかもしれないし、彼から見てもらえているのに「見てもらえていないと感じやすい心の状態」が隠れている可能性も考えられるわけである。
このように考えると、まぁ恋愛や夫婦関係の問題というのは非常に繊細で複雑、かつ、まさにケースバイケースで、他人の恋愛を真似ているだけでは解決できない問題が山ほどあるように思うのである。
どうせ優しくするなら「心から与える意欲を」
さて、ここからはまた「優しい男と、優しさは違うぞ」という話に戻ろうと思う。
その意見、僕なりに理解できるのである。
優しい人が真実の優しさを表現しているとは限らないという面では、たしかにそうだと思うのである。
ただ、他人に厳しい人より優しい人ほど真実の優しさを表現している可能性は極めて高いとも思うのである。
だから、いわゆる「優しい人の悪い面だけを取り上げてしまうのもどうか」と思うのである。
そもそも「優しいこと」は悪いことではないからだ。
それこそ先に書いた
その優しさが「自分の価値観として発信されていること」なのか、それとも「相手のために与えたいこと」なのかの違いのほうが重要なのだろうと思うのである。
もし、自分発の優しさが「相手のために与えたいこと」ならば、優しくすることで喜びや自信を感じられるはずである。
しかし、自分の優しさが「自分の価値観として発信されていること」ならば、これは「優しい自分」という役割の話となる。
その役割から降りられなくなった結果、例えば自分の優しさに依存する誰かが現れたとき、恋愛や結婚生活が苦しくなりやすい、という話も結構あるのだ。
もし、優しい人という役割を担っている自分が相手にNoを言えば、優しい自分でいた自分を自ら否定することになるからだ。
役割として優しい自分でい続けた結果、自分自身がしんどい思いをするならば、それもまた切ないことではないだろうか、とさえ僕は思う。
つまり、「優しい男と優しさが違うもの」であることは、優しい自分でいる側の意識の問題ではないだろうか。
優しい自分でいるその本人が「優しい自分でいること」と「優しさを与えること」は違うのだ、と理解できるかどうか。
その違いが、自分にも相手にも優しい自分でいられるかどうかの違いを作る部分なのだろうと考えるのである。
そう考えると、優しさを与えるならば「心から与えたいこと」にしてしまうほうがメリットがあるように僕は思うのである。
今、与えている優しさが「優しい自分でありたい」という部分から生まれているものであっても
「相手に心から与えよう」
と意識していくことで、与えるというの意味での優しさになっていくのではないか。
その方が自分自身の中で不一致が起きない分だけ、優しい自分でいることを誇らしく思えるようになるのではないだろうか。
逆に「私って普段優しくないから、優しい自分を見せないとな」と思うなら、それはお互いにとってあまりいい効果がない行為となりえると思えてならないのである。
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