日常に使える心理学

尊敬する人たちの輪に入れないことで落ち込んでしまう理由と対処法

浅野寿和先生への質問です

はじめまして。先日ブログを拝見して心を打たれたので思い切ってメッセージを送ります。

私はツイッターを見ていて傷ついてしまいます。先日もツイッター上で、自分の趣味に関わる人達が仲良くしている様子(私の尊敬する人たちと苦手な人たちが仲良くしている様子)を見てしまい、落ち込んでしまいました。私がその輪に入れないこと、私の尊敬する人に苦手な人が近しいことが受け入れられないのだと思います。

なぜ受け入れられないのかというと、私は尊敬する人たちの才能や人柄に執着しているからだと感じています。私は自分に才能がない、魅力がないと常々思っているので、自分の価値を他者に見出そうとしてしまいます。「才能のある人たちと交流している私には価値がある」と自分を評価したいのです。逆に言うと「才能のある人たちとうまく交流できない、見向きされない私は無価値だ」とも思ってしまいます。自分を評価してくれる「才能がある人たち」がいる趣味の場に自分の価値と居場所を見出し、依存してしまっています。

自分としてこの執着をどうしたら切り離せるのか、自分を自分で満たせるようになるのかがわかりません。どうしたらよいのか、アドバイスをいただけたら嬉しいです。

ネタ募集ネーム:もこさん

もこさん、はじめまして。ブログをご覧いただきありがとうございますm(_ _)m

また、勇気を持ってネタを送っていただきましたこと、感謝申し上げますm(_ _)m

今日はあなたのご質問にお答えしますね。

さて、今回のご質問は「人の輪に入れないことで落ち込んでしまう」「自分を評価してくれる「才能がある人たち」がいる場に自分の価値と居場所を見出し、依存、執着してしまう」という状態をどうしたらいいのか?といった感じですよね。

ただ、もこさんのご質問の中で書いてくださっている

>私は自分に才能がない、魅力がないと常々思っているので、自分の価値を他者に見出そうとしてしまいます。「才能のある人たちと交流している私には価値がある」と自分を評価したいのです。

という部分はスバリその通りだと思いますし、だからついつい落ち込んだり執着してしまうのだと僕も思います。

ただ、ここまで明快に書いてくださっていることが、僕にとっては逆に「なるほど〜」と思う部分でもありまして、どこかもこさんのお人柄を示すようでもあり、かつ、もこさんのパターンといいますか、感じ方の癖のようなものを感じないわけでもありません。

もちろんネガティブな意味ではないです。むしろこのような気持ちになること自体、しんどいことですからね。

そのあたりの話は今日のコラムの最後あたりにまとめるとして、一つずつ解説していきます。

よろしければどうぞ。

 

尊敬する人たちの輪に入れないことで落ち込んでしまう理由

さて、今回は「尊敬する人たちの輪に入れないこと」がテーマですが、いわゆる「人の輪の中に入れない問題」を抱えると、疎外感を感じやすくなりますし、だから落ち込みやすくなったり、寂しさ、孤独を感じやすくなることがあるでしょう。

ここでは「分離感」と呼ばれる、私は人と違う、という感覚を強く感じるものでしょう。

このとき「怖れ」を感じますから、人と違うことが怖い、って感じるんです。

また、人と違うことがダメと感じると、人と違う自分は他人から責められる、とも感じやすくなります。

人によっては「受け容れてもらえない」「受け容れてもらえない私には価値がないんだ」と感じることもあるかもしれませんが、ここで「人と違う自分に価値はない(それでは愛されない)」と感じていると、やっぱりしんどくなっちゃいますね。

それぐらい僕たちは「誰かと一緒」と思えること(あぁ私はひとりじゃないんだなと思えること)や、「人に受け止めてもらうこと」で、安心感を感じたり、いわば自分の座標のようなものを知る場合もあるわけです。

人に受け容れてもらえると思えば嬉しいし、受け容れてもらえないと思えば悲しい。

これは確かに依存的な態度だと言えるのですけど、でもそんな部分を僕たちは持っていますよね。

全く誰にも依存していない人もまぁいないでしょうから、僕はまぁしゃーないことですよね、程度に考えています。

ただし、あまりに依存的な気分が強まって、私は人に受け止めてもらえない!という感覚が強いと、どこか自分のことがよくわからなくなったり、つい人の目を気にしてしまうようにもなるでしょうし、自分には価値がないのではないか、といった疑いを感じやすくなるものです。

それもこれも「私は私でいいの?」という疑問が消えないから、なのです。

そして、自分の存在する理由を他人に委ねてしまうなんてことも起きるのですね。

もちろんそうなるには事情がある、ということだと僕は考えているのですけれども。

私が苦手な人が私の好きな人に近づくと、私が好きな人を嫌いになってしまうという罠

私がその輪に入れないこと、私の尊敬する人に苦手な人が近しいことが受け入れられないのだと思います。

さて、もこさんが「私の尊敬する人に苦手な人が近しいことが受け入れられない」と書いてくださっている部分を僕なりに解釈すると、自分自身が「尊敬できる人と上手に関われないことを問題にしている」という感じになるんです。

ここが問題なければ(問題意識を持たなければ)、おそらく尊敬する人に苦手な人が近づいていても気にならないのではないでしょうか。

つまり、自分が尊敬する人と関わりたいのに上手に関われないと思うと、他の人に対してあれこれ思うようになるのでしょう。

なので、これは自分の問題として扱われることを僕はおすすめしたいのです。

ここで「尊敬する人に苦手な人が関わっていることが許せない」とか、「尊敬する人が私が苦手にしている人を受け入れている。それはありえない」と思えば思うほど、今度は自分が尊敬する人に関わりたくなくなる可能性が高まります。

つまり

  • 私は尊敬できる人が好き。
  • 私が苦手にしている人も、同じ尊敬できる人が好き。
  • 私が尊敬できる人は私が苦手な人を受け入れている。

という状態になったとい、人は「私が苦手にしている人が好きだと感じている対象(尊敬できる人のこと)のことまで嫌いになってしまう」ことがあるんです。

こういったことは僕たちの日常の中で意外と起きていることですよ。

例えば、私はAというブランドの服が好き。いつも気に入ってきていたら、私が苦手にしているZさんもAというブランドが好きだということが判明した。すると、途端にAというブランドを嫌いになったり、これからも着続ける気にならなくなった、なんて話が典型例です。

これはフリッツ・ハイダーのバランス理論と呼ばれるもの。

いわば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態になってしまう可能性もありますよね。

 

もちろん多くの人が、素晴らしい人、尊敬できる人と関わることに価値を見出すものかもしれません。

ただ、もこさんにとっては「尊敬できる人と上手に関われる自分になること(尊敬できる人と対等に付き合える自分になること)」に、大きな価値を見出している状態なのかもしれませんね。

だとしたら、あなたが尊敬できる人に関われなくなってしまう事情を持つことが何よりしんどいはずです。

私はツイッターを見ていて傷ついてしまいます。先日もツイッター上で、自分の趣味に関わる人達が仲良くしている様子(私の尊敬する人たちと苦手な人たちが仲良くしている様子)を見てしまい、落ち込んでしまいました。私がその輪に入れないこと、私の尊敬する人に苦手な人が近しいことが受け入れられないのだと思います。

あなたが傷ついたり落ち込んだ理由は、もしかすると「あなたが尊敬できる人に対して不信感を持ったこと」ではないでしょうか。

もちろんそう思うにも事情がありますから、自分を否定的に見る必要はないのですよ。あなたが傷ついたと感じる気持ちも癒やされるべきお気持ちだと思うのです。

ただ、僕たちは「人に理解されなかったこと」より「自分が人を理解しなかったこと」によって傷つくことが多いのです。

「人に理解されなかったこと」は被害者意識、「自分が人を理解しなかったこと」は加害者意識。

どちらが自分にとって都合が悪いと感じるか、といえば加害者意識の方です。

つまり自分自身が罪悪感を感じる状態に陥るのでめっちゃ凹むんです。もちろんそんな自分を肯定する気にもなりません。

それがあまりに苦しいと人のせい、つまり、自分は悪くないと思いたくなる、というわけです。

https://www.asanohisao.jp/archives/2461228.html

被害者・加害者の視点から考えた問題解決の方法今日は被害者意識と加害者意識という視点からの問題解決がテーマ。前回のコラムの続きになりますが、よろしければどうぞ。...

ここで「尊敬できる人と苦手な人が仲良くしている」という事実で傷つき、落ち込んだと解釈するとしたら、この両者が仲違いしたり、関わらなくならない限り、自分の気持ちは回復しないってことになりますから、よりしんどいはずですよ。

しかし、もしあなたが「尊敬できる人を尊敬し続けることが難しくなったのかもしれない」という解釈をするならば、もう一度尊敬できる人との関係を見直すことで、自分自身の状態をより良い方向に向けることも可能になるでしょう。

このとき、万が一「今の自分には尊敬している人にちゃんと見てもらえるほどの価値がない」と思っていると、ついつい尊敬できる人と関わる事自体に気後れしたり、遠慮してしまうんです。

相手との差・違いがあって当然なのですが、その差や違いが問題だという意識になるんです。

すると、自分から関わることを遠慮してしまうので、結果的に相手から関わってくれることを待ってしまうような、そんなスタンスになりやすいんです。

だから、自分が待たされる(尊敬できる人が別の人と関わっている)と、嫉妬めいた感情が湧き出してくるのですが、この根っこにはきっと分離感や、それに伴う寂しさや孤独が眠っている可能性があります。

そして、そういった感情を私に感じさせると思う人、ここでは「尊敬できる人」や「あなたが苦手にしている人」ですが、この人達をどこかで私を傷つける加害者のような視点で見つめてしまうのかもしれません。

たとえそれが本意ではないにせよ、こうなると

>私がその輪に入れないこと、私の尊敬する人に苦手な人が近しいことが受け入れられないのだと思います。

といった状態になるのでしょうね。

また、このような心理状態にあると、人によっては虎の威を借る狐ではないですけど「私はこんな素晴らしい人と関わっているのよ」ということが自分の価値になったり、自慢にもなる場合もありますね。

ただ、いいか悪いかは別にして、それは自分の価値ではないんですよね。

このような状態のことを、もこさんは「才能のある人たちと交流している私には価値があると自分を評価したいのです」と書いてくださっているのではないかな、と僕は感じていますよ。

確かに尊敬できる人とご縁があることは素敵なことですし、そういった方と関わるには勇気が必要かもしれません。

が、関わることができたからといって自分の価値が高まるわけではないのです。

むしろその尊敬できる人からたくさん良い影響を受けたり、学びを深めることにこそ意味があるのではないかな、と僕は感じているところです。

それによって自分が関わる人の価値を最大限に尊重できる、とは言えないでしょうか。

だからこそ「あなたが苦手な人が尊敬できる人と上手に関わっている姿」を見るとどこか邪魔をされたような気がしたり、尊敬できる人に対しても「どうしてそんな人達と関わるの?」と嫉妬して、受け容れられない、許せない気持ちになってしまうのかもしれませんね。

まるで自分の気持ちの価値が失われたかのように感じてしまうのでしょうが、本当は「私のほうが尊敬する人を大切に扱えるのに」といった競争心が隠れているかもしれません。

だとしたら、そんな競争心を抱くほどに、本来のあなたは「愛したい人」であり、「人を喜ばせたい人」ではないか、と僕は解釈するのですが、いかがでしょうか。

かつ、そのあなたが「苦手な人とか変わっている尊敬できる人」の価値を見ないようになったとしたら、自分に失望してしまわないでしょうか。

この失望が無価値感につながる可能性もあるよ、と言ってしまえばそれまでなのです。

ただ、もしそうだとしたら「尊敬できる人との関わり」に何より価値を見出しているのはあなた、ということになりますし、逆に言えば「それぐらい今まで尊敬できる人に遠慮されてきたのかな?」「それぐらい普段のもこさんは一人で頑張っている時間が長いのではないかなぁ」とおせっかいにも僕は考えたりするのですね。

権威的なイメージを否定的に見ていて、自分の価値が感じ取れないから起きること

また別の視点でお話しましょう。

もし「あなたが自分の中の価値を否定的に見ている」としたら、その部分が今回のような問題を引き起こすという視点もあるのです。

人にはその人なりに素晴らしい価値があります。また、得意なこと、人に貢献できる要素も持っているのです。ここは人に提供できる価値と言えますし、自分自身がいわゆる「人から一目置かれる」部分でもあるんです。

しかし、何かしらの事情で自分自身が権威的な人やモノとの葛藤を抱えてしまうと、「自分自身の中にある素晴らしい要素」も否定的に見ていたり、時には「人の素晴らしさ」と喧嘩して競争心をいただくようになります。

いわば、自分にとっての権威的な人を否定的に見ているので、自分の中の同じような要素をも否定してしまうんです。

平たく言えば「あんな風になりたくないわ」と禁止しちゃうんですね。

このような状態を僕が学ぶ心理学の言葉を使って表現するならば、「あなたにとっての権威からの愛や理解、思いをどれだけ受け取ってきたか」ということにもなります。

言い方を変えれば、あなたが「権威的な人と葛藤していなかったか」という風に見ることもできるんですよね。

ここでの権威とは、子供時代では「親」になりますし、学校の先生や先輩などの目上の人もそれにあたります。もちろん社会で活躍されている先輩方もそうです。

いわば、あなたをサポートしたり、支えたり、導いてくれる人たちを嫌ったり、自ら関わることを遠慮していい子を演じていたり、怖がって関われなくなっていなかったか、といった「権威的な人との関わり方」が、大人になった今の対人関係の不調につながることも少なくない話なんです。

これも、今までのあなたが寂しい時に寂しさを我慢したり、誰かに頼りたい時に頼らずに来たのではないか、といった話につながるのですね。

このように「自分が本来尊敬できる人」との葛藤を抱えていると、人から褒められたり承認を向けられても、いわゆる謙遜ではなく、本気で「そんなにすごくありません」「自分なんてまだまだ」と自分に言い続けてしまうことにもなります。

また、自分の価値を認めると「嫌っている権威」に近づくからこそ、自分の価値はなかなか認めようともしないし、感じ取れないのです。

人によっては「自分の価値を認めようとすると何故か不遜な態度をとってしまう」なんて方もいます。

それもこれも自分の中の権威的な存在のイメージが悪くなっているからこそ起きる、と考えることができるのです。(例えば、お父ちゃん、お母ちゃん、先輩、社会の人たち、成功者などのイメージね)

自分の価値は認めたいし、自分は自分でいいと思いたいのだけれど、しかし自分の中の「自分を認めている人・自信がある人」のイメージが悪いからこそ、素直に自分がそうなることを許せずにいる、といった感じなのです。

だから、ある意味他人に「理想的な権威の姿」を求めることも起こり得るでしょうし、だからこそ「その権威が少しでも自分の理想と違う」と、それだけで失望してしまうことも増えるのです。

ただ、このとき受け入れられないのは「権威などの他人」だけでなく「理想の私になれなかった自分」でもあるんです。

だから、今の自分のことを自分で認めることにあまり意味は感じないし、人から認められることで安心したいと思うのです。

ここには完璧主義的発想や期待の心理が隠れていて、今の自分に期待するけれど、しかし失望することばかり考えてしまうんです。

だから、その部分を支えるために自分の外側に価値を見出そうとするようにもなるんですね。

ただ、ここには「本当はこうありたかった自分」も存在するはずなのです。

例えば、誰かの役に立ちたい、支えになりたい、喜ばせたい、希望になりたい、といった自分。

この部分が全く自分の中で感じられないと、めっちゃ不安になるんです。

相手から嫌われたとか、他の人から認められたいとか、そういった思いが強くなるんです。

今回のご質問にも「つい依存してしまう」と書いてくださっていますけど、依存してしまうという表現になるぐらい、依存を問題とされているのかもしれません。

これが僕が冒頭に書いた「なるほど〜」と思った部分です。

きっとあなたは「自分がなぜこうなるのか」を理解されているのでしょうし、逆に言えば、いつも「自分をネガティヴに見る態度」を優先されてきたのかもしれないな、と感じたのです。

問題は、自分自身がそれほどまでに「人を大切にしたい気持ちを持っている」という部分が感じられなくなってしまったことが、今回のご質問に隠れた問題なのだろう、と僕は思うのですね。

問題解決の鍵は「自己受容」「貢献意識(許し)」

ということで、僕なりの問題解決の鍵をまとめると次のようになります。

よかったら読んでみてくださいね。

まず今の自分自身の気持ちを受け容れる(自己受容)

おそらくもこさんは、このようなご質問をいただくぐらいですから「これ以上依存的な自分になるのは嫌だ」と思われているのかもしれません。もちろん傷つきたくもないでしょうしね。

ただ、この発想って「私は相手に対して依存的にならないし、迷惑をかけないようにするから認めてね、愛してね」といったメッセージにもなり得るんです。

そして、これが叶わないとき、なんともやってられない気分になるんですよ。

自分はこんなに自分を律してきたのに、どうして分かってもらえないんだろう、と感じやすいんです。

ただ、これもまた依存、待ちの姿勢だったという可能性も否定できないわけですよ

まぁ、ついそうなっちゃうものかもしれませんし、だから問題だとは言いたくないんですけどね。ただ、自分が切ないという意味では手放す価値があることかな、と思います。

ただ、今、感じる自分の依存心を罰したり禁止しても、おそらく満たされない思いが膨れ上がるだけ、ということも少なくないので、ここは丁寧に自分の気持ちと向き合われる方がいいかもしれませんよ。

つまり、「今の自分はこんな風に感じているんだなぁ」と認めていくことがポイントです。

私は尊敬できる人と関わリたくないと思うことが嫌なんだなぁ、とか。

相手に迷惑かけないように頑張ることに、価値を見てきたんだなぁ、とか。

それぐらいできれば尊敬できる人の為になにかしたいのかもしれないなぁ、とか。

でも、それが迷惑になったらそれもまた嫌だなぁ、とか。

そんな気持ちを感じている自分を見つけては認めて、その上で「で、私ってどんな自分でいたいのだろう?」と考えてみるといいんじゃないでしょうか。

ちなみに、これは僕の経験からの話ですけど、だいたい「依存的になるのは嫌だ」と感じるときって、「これ以上誰かに何かを期待して傷つきたくない」と思っているか、もしくは「人に依存するのではなく貢献したいのにそれができない自分が嫌だ」と思っている場合が多いものです。

どちらにしても自分を罰しているのですが、それが依存的か、貢献的かの違いがあるのです。

これ以上期待して傷つきたくないと思う場合は、自分が向き合っている相手を「私を傷つける人にしない」という意識が必要ですかね。その上で、自分から与えていく必要があります。そうじゃないといつまでたっても「傷つく」という不安が消えないので。

人に貢献したいと思っている場合は、その気持ちを大切にして表現していくことがポイントですね。それぐらい人に貢献したいと願っていたのは自分だ、と大切に自分の気持ちを扱ってみてください。

今あるものに意識を向ける

また、今ないものに意識が向いているときほど、今あるものに意識を向ける心がけは大切になりますよ。

例えば、今回の場合ならば、「今の自分が尊敬できる人と関われている部分がある」ということを認めることも大切ってことです。

これは「尊敬できる人を使って自分をちっぽけに扱わない」ためにも重要な要素です。

誰も人の邪魔や罰になんてなりたくないんです。中にはあえて相手のために悪者役を担う人もいますが、多くの人は自分の存在が誰かの害になることを嫌がるはずです。

それは自分だけでなく、相手だって、あなたが苦手にしている人だってきっと同じはず。

人を呪わば穴二つといいますけど、相手を自分を罰するもの、責めるものとして認識すると、オートマチックに自分が罪悪感を感じます。人を悪く思う自分は愛ある自分にとって許せないものですからね。

もし、相手を使って自分を責めていたなぁ、と気づいたら、そうだったんだと認めて、人を自分の罰にしないように心がけてみてください。これは心がけを続けることが重要です。悪意なんてなくてもついついそうしてしまうものだからこそ、意識しておくことが大切ですね。

あとは、今あなたが関わっている他の人達との関係をより良いものにする、というのもいい方法です。

今あるものに感謝するだけでも、随分と自分を肯定しやすくなるものですよ。

貢献意識を持って人と接すること

また、あなたが「人に依存してしまうことを問題にしている」のであれば、本来のあなたは人に与えたい、貢献したい人でしょう。

依存することが問題でないと感じる人ならば、悩まないのでしょうから。

しかし「今の自分では十分な貢献ができず相手のためにならないのではないか」とか、「失敗して傷つくのではないか」と思えば、なかなか自分から貢献する意識を持てなくなるかもしれません。

ただ、その結果、待ちの姿勢を貫いても不安なだけですし、自分の中の貢献意識があればあるほど、「私は相手に貢献していない」と責めてしまうものです。

だとしたら、自分を許して認め、その上で「なりたい自分」にふさわしい行動を取り入れることが効果的ですよ。

(よく「愛される私になりたい」というお声を伺いますし、そのお気持ちは理解できるんです。確かに愛されてなんぼって思う気持ちもわからなくもないので。ただ、この気持ちは「人が見て素敵だなと思える行動を取れる自分でありたい」ぐらいに変換しないと、愛される(求める)気持ちばかりに飲み込まれてしまうかもしれませんので、要注意です。)

具体的には、今の自分にできる範囲でいいので、尊敬できる人のために与えられることはなにか、を考えて実践してみるといいでしょう。

それは日頃からの感謝でもいいですし、相手の様子を見て相手のために行動すればいいですよ。

ここでのポイントは「自分なりにベストを尽くして取り組む」ことです。

自分の中で中途半端な動機で行うと「自分は中途半端な気持ちで与えている」という疑いがやってきてしまいます。そしてその疑いは自分の行動動機によって生じるものなので、いくら他人が「すごいね」「めっちゃ頑張ってるやん」と言ってくれても、自分が中と葉んパだと感じていると受け取れないのです。

だから、ここでは自分なりのベストを尽くすことがポイント。

もちろん無理なことをする必要はないのです。

それがたとえ苦労だと思えても、相手のために熱心に関わったり、相手からの何かしらの行為に心から感謝することによって、自分を許すことができるようになるんですね。

逆に「自分が頑張っても相手は喜ばないし、それは迷惑では」とか「私が関わってもそんなに意味がないのでは」と思い続けることが、いわば権威的な要素との葛藤の現れです。

権威的な人を自分を愛さない人、理解しない人、にし続けるという意味でね。

ここでのポイントは「自分から貢献意識を持つことで、自分の中の権威のイメージを変えること」にあります。

このような行動を通じて、僕たちは自分の中で権威的なイメージを肯定的に受け入れることができますから、自ずと自分の価値を認めやすくなりますよ。

最後に「許し」について書いておきます。

結局自分が誰かのために何もできていない、と思うと、尊敬できる人や権威的な人の評価を気にしてしまうものです。

でも、それこそ自分を少し小さく見積もりすぎているから起きることかもしれません。

が、小さく見積もっておかないと、自分が「こんな風にはなりたくない」と感じるちょっとネガティヴな権威のイメージに近づいてしまうので、自分を認めることができなくなって、また周囲に依存してしまうのですよね。

そういう意味では、自分にとっての権威的な存在との関係を改善すること(例えば、親や上司、先輩との関係を見直して改善する)は、こういった問題を解決していく大きな鍵になりますね。

 

実はこの他にも癒やしの視点はあるのですけど、今回は1万字を超えるような長さになってしまったのでここで終わりにしますね。

なにか参考にしていただけますと幸いです。

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