恋愛の心理学

自己肯定感が低く、元彼の優しさに気づけなかったと後悔ばかりしています

浅野さんへの質問

こんにちは。
なぜか元彼の優しさに気づけなかったということをグルグル考えてしまうという悩みです。

約1年お付き合いし、別れました。
その後、別れたのを理解しながら仲良くしていこう、といわれ、なんだかんだ密に接してきました。

しかし私はその感性があまり理解できなかったのか、ちょっとした優しさを彼が見せてくれても全く気づかず、むしろ全てにイライラしてしまう事が多かったです。そのせいか、優しく接しようとしても結局毎回責めてしまいました。

別れてるんだから、といばそれまでですが、それらが色々積み重なった今、完全に関係が破綻してしまいました。もしかしたら別れる前から破綻してたのかもしれませんが…

今は拒絶されているように思えます。もっと優しさに気づいてそれらを感謝して受け取っていればこうはならなかったのかなと思ったりします。

また別れてから寂しく、拒絶された気がしてしまい、身体の関係を求めてしまいました。彼は嫌だと言いながらも行為は行ってきました。
その時間だけは自分を見てくれているような気がしていました。しかし色々考えて、やはり離れようと思いましたが、その後は逆に求められ断れないという関係に逆転してしまいました。

別れてからもずっと一緒にいて、しかしあっさりと捨てられ、向き合いたくないと言われ、むしろヤバい人間だ、といった認識をされてるように感じ、とても辛いです。

恋愛や向き合う話はもうしないでくれと言われました。ただ環境上、週一回は会う関係なので上手く振る舞えずまた自己嫌悪に陥ってしまいます。

自己肯定感が低い、とお付き合いしているときに言われ続けていましたが、言われすぎて余計に低くなってしまったようにも思えます。自己肯定感の低さが、優しさを受け取れなかった原因かなと自己啓発本などを読み漁ってみたりもしました。

優しさに気づけず傷つけてしまった部分と、それでも頑張ろうとしたところを気づいてほしいという気持ちと、ヤバい人間だと思われたくない気持ちと、結局自分がなにをしたいのかどうありたいのか行方不明になっていると思います。拒絶されるくらい傷つけてしまったという後悔も大きいです。結局お互いが人を傷つけることには鈍感で傷つくことには敏感なだけなのかなあと思ったりもします。

長くなってしまいましたが、いつもこのように考えて考えて結局ゴールには辿り着けません。

本来は優しくしてくれてありがとうと伝えたいですが余計拗らせることは理解しているので、最低限考えることをやめたいと思っています。よろしくお願い致します。

ネタ募集ネーム:はぴさん

はぴさん、お待たせしましたm(_ _)m

ネタのご協力ありがとうございます。今日はあなたのご質問にお答えしたいと思います。

よろしければご覧くださいね。

自己肯定感が低いと自分が愛していることの価値を感じ取れない

さて、まず「自己肯定感」とは、その言葉の通り「ありのままの自分を肯定する感覚」のことを意味します。

自分を他者と比較することなく、自分自身が「今の自分」を認め、尊重することで生まれる感覚のことです。まぁ主体性がある状態とも言えますし、自己責任原則に則っているとも言えますね。

自己肯定感が高いと、たとえ今の自分がどんな状況であっても、それが今の自分(自分の置かれた状況)と認識できるので、自分の選択、感情、行動、状況を受け入れ、どう対処しようかと考えられる状態になりますね。

恋愛でいうなれば「どう愛するか」「どう今の関係を前向きに進めるか」と主体的に考えることができるんです。今の関係にコミットメントできる、とも言えるでしょう。

また、自分に至らない部分があっても、課題としての認識はあっても、問題として自分を罰するような思いはあまり抱かなくなります。それも自分、それが自分と思えるものでしょう。自分の至らない部分も受け入れているから(責めていないから)、そう思えるわけですよね。

だから、無理や犠牲はしなくなります。自分を貶めてまで関係を維持することはしないでしょう。

もし、自己肯定感が低いことで生じる恋愛上の問題は、後ろ向きな発想、相手次第な発想を持ちやすく、「相手にどう思われているだろう」ばかり感じてしまいやすくなることででしょうか。

結果、相手の気持ちばかり気にしているのに、実際は「本当に愛されてるの?大丈夫?」という(自分への)疑いが消えず、相手を試したり、相手にムリをして尽くしたり、相手の気持ちに自分の価値を依存してしまうなんてことが起きる可能性があるわけですね。

だから、自己肯定感が低いと恋愛で不安になる、いわば重い恋愛や無理・我慢ばかりの恋愛になりやすい、という考え方があるというわけです。

 

自己肯定感がどうであれ愛していることに違いはない

とはいえ、いくら自己肯定感の影響があるにせよ、人が人を思う気持ちにいいも悪いもありませんし、そこに格差などありえあい、というのが僕の見解です。

そもそも人の愛情の価値を推し量るものさしなんてものは、存在していないと思うのです。

その人が、その人なりに、誰かのことを思い、大切にしたいと願い、今の関係をより良いものにしたいと願う気持ちに「それってどうなのよ」とツッコミを入れるのは難しいことではないでしょうか。

もちろん相手からの愛情ばかり求めたり、「私はこんなに好きなのにどうして答えてくれないの」と思うなら、それは愛じゃなく要求なので話は別です。

自分の思い通りに相手を動かしたいと思うこともコントロールなので愛ではありません。

ただ、どんな気持ちであったとしても「自分なりに相手のことを大切に想った」という事実は、自分自身の存在価値に関わる大きな要素になると思うのですよ。

それぐらい私たちは「人の役に立ちたい、誰かを笑顔にしたい」と願っていますし、それこそが自尊感情、自己肯定感が示す本質だと僕は考えています。

「自分は大丈夫」から、「自分の存在を誇らしく思え、その自分が誰かの勇気、希望、笑顔、心の支えになれる」といった、大きな自分になることを喜びだと感じるのが僕たちの心なのでしょう。

だからこそ、どこかで自分をちっぽけに感じて「本当に私でいいの?」「十分なの?」と感じていることが辛いし、不安を煽るわけですよ。

 

ただ、ここでお伝えしたいことは「自己肯定感がどうであれ、自分なりに愛していることに違いはない」ということにつきます。

もちろんあなた自身に「愛している(た)」といった実感が伴っていたかどうかの問題はあるんですけども。

少なからず、今の自分にどれだけの価値や肯定的な感覚を感じているかが、自分から彼に向けた愛の証明となっているわけではなくて、今の自分がどんな状態であっても「この人のことは幸せにしたい、笑顔にしたい」と感じたことの価値は不変なんですよ、とお伝えしたいわけです。

自己肯定感の低さから、上手に愛を表現できないことはあるでしょうが、愛していないということではない、というのが僕の見立てです。

むしろ、愛していないのなら悩まないし、後悔しないのです。

たとえ、相手に依存的な態度や不遜な態度をとったとしても、その人の中で「相手のことを幸せにしたい」という気持ちがあるなら、そこには自分なりの愛情があった、ということではないでしょうか。

しかし、つい自分を受け入れることを拒み、自分にとって最も大切な愛情や相手への思いを自分自身で信頼しきれていなかったことが、最も辛いことではないかと僕は思うのです。

 

ただ、今回のような彼と別れた後で、自分の愛情を認めたり、相手の気持ち(優しさなど)を認めようとするととにかくモヤモヤするのですよね。

自分の中にも、相手の中にも「相手を思う気持ち」があったんだ、と認めようとすると、「じゃあなんで二人はこんなことになったの?」「一体どうしたらよかったの?」「ちゃんと相手の気持ちを受け取れなかったのは私じゃん」といった自分を責める気持ち(罪悪感)とぶつかり、葛藤してしまうのです。

そして、この葛藤をどうにか収めていく方向で考えることが、はぴさんがおっしゃる「長くなってしまいましたが、いつもこのように考えて考えて結局ゴールには辿り着けません。」というご質問に関する答えになるのかなーと僕は感じているところです。

 

問題解決の視点は「どうして私は愛情を信頼できなかったのだろう」と考えること

ここで見つめるべき点は「どうして自分の中に愛情があったのに、それを信頼できなくなっていたのだろうか」ではないでしょうか。

人ってものは「自分の中に相手への愛情があると感じられる」からこそ、「相手の愛にも応えられるもの」です。

ちゃんと愛を返せる自信や意欲があるから、相手の愛をも素直に認めることができる。

そこで「対等な関係」を持つことができるようになります。そのために自己肯定感を高めましょう、という話が出てくるのです。

 

でもこれは「自分の中に愛がなかった」という話ではないのです。

むしろきっとあったのでしょう。でなければ後悔はしないのではないでしょうか。

ただ、自分よりも元カレさんのほうが「私の愛や存在」に価値を見てくれたであった(だから恋愛関係になった)としたら、上手に自分のありったけの気持ちを表現できなかった自分に対する自責の念が湧き出しても不思議ではないんです。

そこに罪悪感や無価値感の影響があるわけです。

例えば、どこかで自分に愛情の価値を低く見積もりすぎていたり、自分の影響力を過小評価していたりと、いろんな事が起こります。

その結果、「いくら彼に優しくされても、私にはそんな価値はない」といった感情によって、人の愛をはねのけてしまうんです。

表面的には不安(怖れ)の影響で、ついつい相手に冷たくしてしまったり、相手がどう想っているか考えてしまうといった行動の裏に、この手の感情の影響が隠れていることが少なくない、といいますかね。

だから

結局お互いが人を傷つけることには鈍感で傷つくことには敏感なだけなのかなあと思ったりもします。

といった思いに至られるのかな、と僕は思うのです。

 

いかに自分が自分の愛の存在を疑っていたか。

その結果、相手の愛情や優しさを受け止められなくなっていたのか。

そして、それがどれだけ自分の本位ではなかったのか。

そのあたりをしっかり見つめることは、きっとこのもやもやを解決する方法となりますよ。

平たく言えば「誰かを幸せにしてあげたいという気持ちを持っている自分に『そんなの私には無理じゃないかな』と言っていませんか?」ということでもあります。

できれば「できるよ、私になら」と言ってあげてほしいのです。でもすぐにはそう言えないかもしれません。言えていればこのモヤモヤは生じないと思うので。

そうであったとしても、どうすればその自分を責めず、「私にだったらできるよ」と言えるのか、を考えてみてほしいのです。

そのために、彼の優しさに感謝してみたり、自分自身の頑張りや努力もねぎらう、承認するなんてことが効果的ですね。何ができなかったかより、まずは何ができていたか、を観てみるといいと思います。

また、日常から人に親切にする、心から挨拶をする、誰かの好意に感謝する、誰かのために貢献するような行動を続けてみることです。

これによって「私にならできるかも」と思えるようになりやすいんですね。

すると、この「私にならできるかも」という感覚を通じて「元カレさん含め、自分に優しさを向けてくれていた人たちの気持ち」が自分自身の実感として感じられるようになるのだと思うのです。

相手は私に対して「愛せるよ」「受け入れることができるよ」「優しくできるよ」といっていたのだ、と理解できると言いますかね。

いわば、人に優しさを向けている人の気持ちはどのようなものか、が、自分の実体験を通じて感じる(少なくともイメージできる)と言いますかね。

ここで「優しくしてもらったのに受け取れなかったのは私」という意識から、「私のことをこんな風に想ってくれていたのね、ありがとうね」といった感覚を得られるのではないか、と。

もちろん実際に相手がどのような気持ちだったのかを確かめることはできないのですが、「人が人に対して愛を向けるとき、どのような気持ちになるものか」を感じ取れることにより、「今まで愛してくれたんだね、ありがとう」といった気持ちになれるものかな、と思うのです。

ここで、一度心がチクっとすることもあるんですけど、それを通り過ぎることで、今まで抱えていた葛藤が完了することになるんですよ。

このとき、様々な葛藤から僕たちは解き放たれ、気持ちがスーッと軽くなっていく、いわば手放し・完了となるんですよね。

 

こういった考え方から、あなた自身の自己肯定感のこともありますが、そうであっても自分の中に愛情があったこと、優しくしてくれた相手の気持ちなどのようなものだったのかを、経験的・体験的に知り、感じ取ることが、モヤモヤから抜け出す気持ちの整え方になろうかと思います。

以上、ちょっと長くなっちゃいましたが、なにか参考にしていただけますと幸いです。

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