日常に使える心理学

誰だって大切な人のことは「考えたい」のではないだろうか?

誰だって大切な人のことは「考えたい」のではないだろうか?

「そんな、私のことはいいの。考えなくていいの。あなたは自分のことを考えてくれればいいんだって。」

つい、自分のパートナーや家族、親友などにこう伝えてしまうことってないでしょうか。

カウンセリングをしていると、意外と多く伺う話なんですよ、これ。

「私のことはいいんです」は確かに相手に向けた想いである

「子供は子供のことを考えてくれていればいいんです。私の苦労のことはいいんですよ。」

「パートナーには今は自分のことに集中してもらいたいんです。だから私のことは考えてほしくないし、今は私が支えるときかなって思うんです。」

例えばこのようにおっしゃる方って素晴らしく愛情深いと言えそうですね。

僕もこのようなお話を伺うたびに、ジーンとその想いの大きさ、深さを感じているところです。

大切な人のために自分にできることはなにか?と考えておられるその姿勢も、素晴らしいと思うんですよ。

ただ、こんな素晴らしい人が、なぜ僕のような怪しい(怪しくないか)カウンセラーのもとにお越しになるのでしょうね。

そう、そう思っているのに、なぜか大切な人との関係がしっくり来ていないからなのです。

そんな時、僕はこんなお話をさせていただくのです。

「どんな人も大切な人のことは考えたいし、ときには心を砕いてでも想いたいと思うものではないでしょうか。

それはまさにあなたと同じように。」

大切な人のことは「考えたい」。だから心を砕く。

つまり、誰だって「大切な人のことは考えていたいし、なにか与えたい気持ちを持つもの」ではないかな、と僕は思うのです。

 

例えば、お子さんの中には、親御さんが苦労している姿を見て胸を痛める人がいても不思議ではないわけですよ。しかし、親御さんは善意で「あなたはそんな心配しなくていいの」と伝えた、なんてケースが典型例です。

親御さんの思いにケチなんてつけようがないでしょう。

むしろ子供さんのほうが親御さんの思いを受け取ったほうが物事スムーズに運ぶかもしれない。素直にありがとうと受け取っていたほうがお互いに楽であることは、おそらく間違いのないことです。

しかし、お子さんにも愛があるわけですよ。

そして、大切な人の負担になんてなりたくはないといった気持ちもあるわけですよ。

自分の幸せが大切な家族の犠牲の上に成り立っていると考えたら、自分だけいい思いするわけにはいかない、と思う人がいても不思議ではない。

それこそ罪悪感を感じるわけです。(そんなこと感じなくていいのに、ってのは相手の気持ちを考えていない証拠でっせ♡)

それぐらい親思いのお子さんだって存在するわけですし、その気持ちがお子さんなりの善意であるならば、誰も否定できないものじゃないかなと思うのです。

だから、お子さんは親御さんの思いをすんなり感謝して受け取れなくなるわけです。どこかで「ごめん」と思いながら、親御さんの意思に従うなんて人もいるのです。

このような経験を積んだお子さんは、とかく人に頼らない生き方を選ぶようになることもあるんですね

親御さんの愛情を受け取ることが、罪のような感覚で捉えていたからこそ、オトナになってからも「誰かに負担をかける・誰かの好意を受け取る」といった部分に罪悪感を感じてしまうようになる。

だから、誰にも頼らないような生き方を選ぶんです。

どれだけ家族や周囲に心配されても、それを受け取らない生き方を選ぶようになったりもします。

その姿がどこか意固地のように見えるのですが、その深層心理は必死で「自分なりに相手に与えないと」「受け取るわけにはいかない」と罪悪感の影響を受けている場合も少なくないのです。

そのようなパターンが生じた理由こそ「自分なりの思いを、たとえ相手の善意によって「シャットアウト」されたという経験とその積み重ねの影響であった」という事例はもうめちゃめちゃ多いんです。

もう、もうね、ものすごく多くて僕も大変だぁ〜って思うぐらいですよ。

また、先の事例は親子関係でしたが、恋愛でも夫婦関係でも同じようなことが起きるのです。

例えば、パートナーに必死に支えてもらったことが、逆に責任感としてのしかかってしまい、自分の存在理由が分からなくなって別れを考え始めた、なんて事例がそれ。

自分なりの善意でパートナーのことを心配し続けていたのだけれど、相手が全くこちらの話を聞こうとせず、生き方を変えない現実を見てがっかりし、二人の関係に限界を感じてしまった人。

これらは全て「お互いに愛情・想いに勝ち負けがついてしまうような状態」なのです。

全く悪意のない気持ちがお互いにぶつかり合うことで生じる、見えない「競争」。

どちらが相手を上手に愛せているか、という「主導権争い」(パワーストラグル)。

お互いが考えていることは素晴らしくても、どこかで自分の愛情にケチがついたと感じるほうが犠牲を選ぶようになるのです。

厄介なのは、そういった犠牲的な生き方を選んでいる人ほど、その事情を知らない人たちから「いい人だね」「しっかりしてるね」と人から評価されやすいことでしょうかね。そう言われれば言われるほど、犠牲をとめられなくなってしまうことも意外とある話なんですよね。

「私のことはいいんです」と言う前に「相手があなたに向けた思い」を受け取っておきましょう

実際、パートナーに別れようと言われたなんて案件で、じっくりお話を伺うと、実はクライエントさまが善意で(拒絶する意図は毛頭なく)相手の愛情を蹴散らしまくっていた、なんてケースは本当に稀ではありません。

そして、そのご相談で登場するお二人は、そもそも相手のことや家族のこと、未来のことを真剣にお考えである素敵な方である場合が多いのです。

しかし、どちらかが「相手の愛情を受け取らない」態度を取り続けた、すなわち「今後のことは自分次第だ」と考え続けた結果、二人が傍に寄り添い続けていくことが難しくなってしまった、なんてことも起こるのです。

その後、「別れる・別れない」で揉めに揉めると、また別の問題が生じてしまって、「もう一緒にはいられない」と思うようにもなるわけですが、そんなお話の根っこには「受け取らない自立した人々」が抱える「犠牲・罪悪感」の影響が隠れていることが多いんですね。

もし、あなたがこのようなパターンを持っていて、何故か家族関係やパートナーシップがしっくり来ないなぁと思われているなら、僕はこのようにお伝えしたいわけです。

「おそらく、お互いの間違い探し・あら探し・欠点探しはしてもほぼ意味がないのではないのではないか、と僕は思います。

もし、問題と呼ばれるものがあるとしたら、」どうして相手と共に考え、コミュニケーションを重ね、幸せになろうとしなかったのか」。

いわば「相手の気持ちを見逃してしまった」事情にあると言えそうです。

あなたが思うように、相手だってあなたを思うのです。

人は、大切な人に思いが上手く伝わらないとき、また、うまく伝えられない自分を感じたとき、自分を罰し、人を罰し、まるで愛されるにふさわしくない態度を取るんです。

だから、相手は「もういい」「何も分かっていない」「もうそばにいられない」と言っているのではないでしょうか?

もしそうだとするならば、私のどこが足りないんでしょう?何が悪いのでしょう?と考えているうちは、答えが出ないってことになりまぜんか。

そう、あなたは今のままで十分、相手にに愛されていた。

その気持ちを悪意なく受け取らずにいたことが問題を作ったのかもしれません。

だから、あなたが善意で「私のことはいい」と言いたいなら、その前に「相手があなたに向けた思い」を受け取っておく習慣をつけてみてはどうでしょう。」

目の前のお子さんが、パートナーが、親友が、どれだけあなたのことを考えているのか。

その気持ちをあなたが否定すれば、相手は確実に傷つくのです。

それでもずっと耐え続けて関わっていた相手の気持ちを考えれば、今、取るべき行動って自ずと見えてくると思うんですけどね。

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