恋愛の心理学

気軽に人と関われない&恋愛が続かない問題とその心理的背景

人から遠ざかって自立を強めるので起きる悩み

カウンセリングを長く続けていると、本当にたくさんの「お悩み」を伺います。

僕は年間400件以上の面談カウンセリング(セミナーや電話を合わせるともっと多くなりますが)をさせていただいているわけですが、その多くは「人とのかかわり・つながり」に関する問題だと言えるのです。

いわば「普段からめっちゃ頑張っているのに、なぜか人の関係がうまくいかない問題」なのです。

その代表例が「気軽に人と関われない&恋愛が続かない問題」ですね。

ただ今日はあえて恋愛事例ではなく仕事での事例を使ってみたいと思います。

例えば、会社のプレゼンがうまくいかなくて悩んでいる、というケースを事例にしてみましょう。

これ、一見すると、完全なビジネステクニックの問題のようにも見えます。スキルがあるかないかで結果が決まるみたいなイメージってないでしょうか?僕も以前はそう思っていました。

もちろんプレゼンでのテクニックも重要です。それは間違いないことですよ。

ただ、なにかしらのテクニックを知っていてもうまくプレゼンできないなんて方がいます。

人前で緊張してしまったり、準備してきたとおりに話せない、相手にツッコまれるとしどろもどろになる、とかね。(恋愛で言えば、テクニックは知っているけれど、異性の前に出ると急に恥ずかしくなって何も言えなくなる、みたいなイメージです)

これ、実は「人との関わり方」が悩みを作っていると考えることができます。

いきなりそもそも論なのですけど、プレゼンでは「自分が何を表現するか」も大切ですが、会社が、上司が、取引先が、顧客が「何を求めているか」が見えていないとプレゼンもうまくいきませんよね。

そりゃ当たり前だよ、なんてお声が聞こえてきそうですけども(^^;

でも、意外と「相手のニーズ」より、「自分が思い込んだ相手のニーズ=自分の中の相手」だけを捉えて物事を考えている人もいるのではないかなと僕は思います。

いわゆる「きっと相手は〇〇だろう」という自分の中での想像のこと。

だから、相手に何度も関わるんじゃなく、今得られる必要最小限の情報から自分で想像を膨らませて「きっとこうだろう」と考えている方も少なくないんです。

そういった方ほど「自分で考えてイメージできないとダメ」と思いこんでいる傾向もあるんじゃないだろうか、と僕は感じています。

だから仕事でも恋愛でもなんでもそうですけど、いわゆる「調べ物」はされるんですけど、相手に聞く、人に聞く、いわば「取材」をされない、苦手にしている方もいるんですよね。

 

もちろんこういった方がダメなわけでもなんでもなく、生真面目で、人と関わって相手に不快な思いをさせたくないと思っている人が多い傾向があるよね、ってことなんですけどね。

ただ、その気持ちの根っこには「どこか人とのかかわりを避けて過ごしたい」という気持ちが眠っていることも少なくないんですよ。

こういった心理は、ビジネスだけでなく、様々な問題に影響するものでもあるんですよ。

これ、一言で言えば、人の手が借りられない、お願いができない、相手に関われないという問題なんです。

人の手を借りる、お願いするということ

ちょっと話は変わりますが、ここから少しだけ「依存」についての話をしたいと思います。

いわゆる「人の手を借りる」「人に上手にお願いする」ということが苦手だとおっしゃる方がいます。

というか、僕のカウンセリングでは非常に多いです。ま、僕も人のことは言えないタイプでもありますよ。って、いきなり話が脱線しそうなので戻しますが(^^;

「人の手を借りる」「人にお願いする」ってことは「人に依存する」ということです。

この「依存」に対するイメージがネガティブになっていると、オトナになってからも「人の手を借りる」「人にお願いする」ってことが難しくなることがありますね。

もしくは、僕たちの依存(子供)時代に十分に依存を受け入れてもらえなかった経験があると、どうしても依存を受け止めてもらえなかった悲しみ(痛み)を感じてしまうので、「人に依存すること」が怖くなる場合もあって、なかなか人に聞けないってタイプの方もいるのではないでしょうか。

その結果、自分自身が自立していくプロセスの中で、こう思い込む人も出てきます。

「依存=子供じみている」

これは依存に対する一つの判断・観念なんですけどね。依存ってもんはよろしいものではないと思いこんでしまうことにもなるんですよ。

そして、この判断・観念は「依存を禁止する理由」になる事が多いのですよ。

「依存を禁止する」とは、自分の中の依存心を封印しタブーにするってことです。

だから、依存=悪いこと(禁止すべきもの)となり、極端な依存嫌いになってしまう人も少なくありません。(僕もまぁ有名な依存嫌いでしたよ、僕界隈では(^^;)

まぁ、とにかく「依存=子供じみている、幼い、無力、甘え」なんてイメージがあると、オトナになればなるほど人に関わることができなくなりますね。

かつ、人の依存もなかなか引き受けられなくなります。人からお願いされると、イラッとしたり、損した気分になったり、相手にムカついたりもしますねぇ。

なぜなら自分が依存を禁止しているのに、目の前で、しかも自分に依存してくる人がいるってことですからね。そりゃイライラしますよね。

 

ただ、こういったイライラは被害者意識〜相手が私に依存してきてウザい〜のように出てきますが、その本質はまた別のところにあると思うのですよ、僕は。

強いて言うなら「相手の依存を嫌い、上手に満たしてあげられない」という加害者意識です。うまく相手を愛せないという意識。そりゃそうですよね、自分の中で依存を禁止しているんだからうまく愛せないこともあるでしょう。

そんな意識を抱えているにも関わらず相手にさらに依存されるとしたら、もう勘弁してよ、ってなりますよね。上手に満たしてあげられないのにこれ以上求めないでよ、って思いますよね?

つまり、自分の中で依存を禁止していると、誰かに依存されたときにうまく愛せないという罪悪感や無力感などを感じることになるってことです。

その結果、更に相手の依存を嫌い、自分も依存できなくなるというループが待っていて、依存できないから「自立」するしかないって事になっている場合も少なくないんです。

ここで投影の法則が働くんですよね。

「自分がこれだけ依存を嫌い禁止しているんだから、相手もきっとそうに違いない。自分が関わり、ちょっとでも依存的な態度を取れば相手は嫌がるしこちらを嫌うだろう」と思うようになる感じなんですよね。

だから、その依存心を表現できずに苦しんでいる方もいれば、この隠れた依存心が、更に隠れたところで表現されることもあるわけですよ。その典型例が浮気や不倫、浪費、お酒やギャンブルに溺れるなんて感じになることも少なくないんですけどね。

本当は与えていれば依存にも許可が出るのだけれど

こういった事情が積み重なって、ある意味致し方なく「自立」が強まる生き方になっていくと、いわゆる「成熟した依存」「オトナスタイルの依存」ができなくなっていくんです。

まぁ仕事面で言えば、例えば、仕事なら、なんでもかんでも抱え込んでキャパオーバーになって潰れそうになってしまったり。

いつも一人で周囲に気を使いながら仕事してしているのに、上司から「チームワークを大切にしろ」と指摘されて凹んだり、周囲から「あの人って考えているの?」と警戒されたり、いつしかいわれのない不評をかったり。

また、いつじょ囲い込み営業しかできないなどなどのカタチで表面化することもありますね。

恋愛だと、相手に「本当に私のこと(僕のこと)が好きなの?」と思われて、理由がよくわからない失恋を経験したり。

夫婦関係なら、ちょっとでも相手のニーズを感じると「もううんざり・・・」って感じてロマンスもへったくれもなくなってしまったり、相手を意図的に突き放してしまったり。

こういった感覚・問題を抱えている人って、基本「頑張っている方」ばかりなんです。もちろん「一人で(自立的)」という形容詞はつきますが。

だから、僕はそういった方の生き方を否定的に見ているわけじゃありません。その生き方にもきっと意味も価値もあるからです。

ただ、もし長い間「依存」を禁止して人と関わるとしたら、残る選択肢は「与える」ってことだけになりますよね。

自分から何か行動する、与えるってことになるってことです。(それが貢献かどうかは別にして。)

いわば一方的に頑張り続けるしかない生き方になるんです。

だから、心のどこかでは「誰かに甘えたい」「支えて欲しい」と感じる人も少なくないわけですけど、その気持ちはなかなか満たされることが「ない」ってことになる。

なぜならば「自分で依存を禁止している」って状態が続いているからなんですね。

だから、依存を禁止していると、現実的に自分を支え、頼ることができる人がいても「いない」ってことになるんです。そうとしか認識できないわけですよ。

そこには「そもそも誰にも頼れない心理的背景がある」ってことなのですよね。

ただ、この話には一つ矛盾があるのです。

実は、僕たちが心から誰かのために貢献したり、相手のために与えられていたならば、その自分を許し、認めることができるようになるので、実は「依存」にも許可が出ていくものなんです。

だから、人に関われない問題は次第に解決していくはずですし、パートナーや近しい人に一気にニーズが吹き出してトラブルになるなんて問題は、理屈上起きないはずなんです。

いわば、自分が頑張った分だけのご褒美は受け取れる(依存的マインドに許可が出る)ものなんですよ。

が、普段から頑張っていても依存が許可できないので、ずーっと自立が続くわけです。

頑張っているのに、与えているのに、依存に許可が出ない、という矛盾そのものですね。

この矛盾にはまり込むと、おそらくどれだけ頑張っても自己肯定感って高まってこないでしょう。努力している割に、自分の評価が上がらないんです。

その理由は明確で、依存を嫌い、禁止しているってことは「人の評価や承認を受け取れない」って状態なんですよ。

だから、いくら人の評価や承認を欲してもそれは手に入らない。

といいつつ、どこかで満たされない気持ちがあって、人からの評価や承認を欲し続けてしまうという矛盾にハマるので、自分で自分を肯定しても満たされない何かがずっと残ってしまうという意味で、自分を肯定できなくなっちゃう(自分には何かが足りないと感じやすい)ことも少なくないようです。

言い換えれば「本当に自分は認められているの?必要とされるような人間なの?」と感じやすくなるんですわね。受け取ってないから、ですね〜。

 

許せないのは自分の依存ではなく「特定の誰か」

では、どうして与えているのに「依存」に許可が出ないのでしょう。いわば「依存」に対するイメージがネガティブになったままなのでしょう。

大きな要因の一つに「人の目・社会の目」という考え方がありますよ。

カウンセリングでも「依存に許可を出せって、そんなことしたら社会で生きていけないじゃないですか」なんてお話を伺うことも稀ではありません。ま、たしかにTPOをわきまえず依存を出していたら大変なことになりますね。

ただ、この話は「自分が社会や人を使って依存心を監視している」ということでもあって、結局は自分が人や社会の目を理由にして依存を禁止しているからこそ起きることです。

同じ社会の中にいても、依存に許可を出している人はたくさんいると思いません?ねぇ、平気で仕事振ってくる人とか、異性に甘える人とかいるでしょ?

かつ、ここでの「依存」とは「子供っぽい(子供スタイルの)依存」のことを指しているのでしょう。

例えば、怠惰、甘え、サボる、自分勝手、バレなきゃ何をやってもいいだろう、なんて考え方のことを指している気がします。そんな自分を監視しているってことですよ。

だから、なかなか依存嫌いの人はその禁止を解こうとはしないでしょう、おそらく。

なぜなら、そもそも依存嫌いになった理由の多くが「依存して(自分が依存的な立場にいて)痛い目にあった過去があったから」でしょうから。

自分が誰かに依存していなきゃ傷つくことはなかったし、失望することもなかったし、失敗もなかったし、人から批判を受けることもなかったし、なんて思っている事が多いでしょうからね。

つまり、まだまだ未熟だった僕たちが、依存して傷ついたって経験をして、それ以降、依存的な自分を罰しているから、どうしたって依存への許可は出ないんです。

そしてその根っこでは「自分の依存を理解し、受け止めてくれなかった誰か」を責めている場合がほとんどなんです。

代表例は両親です。特に母親が多いかな。

わかりやすく両親にムカついてまっせ、という場合もあれば、両親のために何もできなかった自分を責めているってのも、自分を責めて自分の幸せを後回しにして、その自分を両親に見せつづけている、という意味で同じです。

もちろん大失恋した元カレ・元カノ、離婚した相手って場合もありますよ。

結局は、自分の依存を受け止めてもらえなかったという悲しみを受容できず、それを隠すために誰かを責めているってことになるんです。

その結果、わかりやすく相手を責める人もいれば、自分を罰し続ける人もいる。自分を罰するとは、自分が幸せにならないことを選択し続ける、みたいなイメージです。

それもこれも、また同じ目に会いたくないから、同じ悲しみに出会いたくないから。

そのために、自分の依存を禁止している。

だから、人とも深く関わらないのです。

もう誰かに期待して傷つくことは嫌なんですよ、ね。

気軽に人と関われない&恋愛が続かない問題に対する処方箋

最初の話に戻しましょう。

つまり「気軽に人と関われない&恋愛が続かない問題」もそうですし、仕事のプレゼンが上手くいかないこともそうなんですけど、こういった問題は、自分が依存心を禁止して、もう傷つきたきねーよ、人との関係で、って感覚がもたらしたものと考えることができます。

そしてよーくその深層心理を見つめていくと、未だ「許していない人(未だわだかまりを持っている人)」がいるってことになるんです。

これが、今までダラダラ書いた話のまとめです(^^;

ただ、この許していない人がいるからといって、その方がダメってことではないと僕は思っています。なぜならそれなりの事情がなければ人を許さないなんて苦しい思いを選択することはないでしょうから。

そもそもそういった傷心、つまり悲しみを抱えても頑張ってきたのは、その方自身だと僕は思うのです。

だから、やっぱり自分を責めない方向で、といつもお伝えしていますし、このテキストを読んでくださっている方にもそうしていただきたいな、と思うのです。

 

ただ、気づかない深層心理レベルであったとしても、未だ許せない人がいると、どうしても自分を罰したり、自分を幸せにしないという意味で、罪悪感を感じてしまうことになります。

その結果、どうしても人と関わると相手に悪い気がしたり、相手に迷惑なんじゃないか、嫌われるんじゃないか、といった想いに駆られてしまい、対等な関係性や、人に聞く、関わる、自分を表現することが難しくなってしまうのです。

なので、こんなときはあなたの許せないと思っている人の依存(ミス)を許すといい、ってことになるんです。

依存を許すとは、相手も人間で完璧じゃなかったし、相手にも依存心があるし、それゆえに自分のことをうまく愛せないことがあった、と理解することです。

そして、相手も自分のことをうまく愛せなかったのならば、いくら口では否定しても、その自分を許すことはできないでいるだろう、と理解することです。

そしてその相手の苦悩を理解し「しゃーないよね」って自分から言ってあげることです。

すなわち、相手に「ありがとうね」と伝えること。

このプロセスを進むことで、自分自身がもっと大きな存在だと感じられるようになります。

相手に過ち(依存)を許す自分になれるわけですから。

するとね、「自分以外にも同じような人がいるんじゃないか」って分かるようになるんです。

これも投影の法則なんです。自分が人を許しているから、他人も人の依存を許してくれる、って思えるようになるんです。

一方的に奪おうとしなくても、相手に気を使いすぎなくても、お返ししなきゃと思わなくても、相手は自分を受け入れてくれていることが分かるようにもなるんです。

これは、自分なりに頑張ることとはちょっと意味が違うんです。自分が依存嫌いのまま頑張り続けるのは、自分の受け入れられない不安や悲しみを覆い隠す目的のためなんですよ。

でも、本当に許せない人を許し受け入れると、自分の自己価値がぐぐっと高まってきて、あぁ自分と同じような人がいるんだって事に気づけます。

思い返せばすーっとそういった人が浮かんできますよ。

親友、学生時代の友人、良くしてくれた恩師、先輩、同僚、仲間、無償の愛をくれた祖父母、そして不器用ながらも愛してくれた両親、などなど。

みんなそうだったのか、って感じになるんです。気づいていなかったのは自分だったんだな、と。

自分を見て、対等に付き合ってくれている人がこんなにもいたんだな、と思えたときに、対等な関係性を作れたり、もっと相手の依存を許せたり、自分の依存も相手に差し出せたりもします。

ここでようやく「対等な関係」がつくれるようになるんです。

なにより依存に許可が出ると「愛しやすい人」になれるので、人も近づきやすくなるものです。

ただ、ここでの依存のカタチは子供っぽい依存ではないんですよ。

対等で、上下なく、お互いに尊重し会える関係だからこそ、支えあえるって感覚がやってきます。

だから、プレゼンでも恋愛でも対人関係でも、相手は私のことを尊重してくれているってベースからスタートできるんです。逆に言えば、あまりに対等ではない態度で接してくる相手には違和感しか感じなくなりますよ。

それもこれも、未だ許せない誰かを許すことで、自分がぐぐっと成長すること、自分の価値が高まること、より大きな自分になるって感覚を感じるからなんですよね。

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