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欠点は愛されると言われても、そうは思えない皆さんへ
最近、あるところでご質問いただいたので、今日はお答えしようと思います。
浅野さん。1つ聞きたいことがあるんです。
平さんの動画(神戸メンタルサービスのYou Tubeチャンネル)でも、浅野さんのブログや話の中でも『不完全でも愛される』『欠点はチャームポイント』という話がありますよね。
私、やっぱりそんなことはないって思うんですよ。
私は欠点が愛されたことはないし、どんな人も欠点を嫌うものじゃないのかなと思うんです。
なのにどうして愛されることになるんですか?
こういったお話を伺うたびに「うんうん。そうですよね〜そう思いますよね〜」とお伝えするのです。
僕もかつては同じように思っていて、そのお気持ちは僕なりによく分かるような気がするのです。
ただ、欠点は無くならないものでもあり、やはり愛されるポイントなのですよ。
そこで今日は「不完全でも愛される」と言われるのはなぜかについてまとめてみようと思います。
また、この考え方を取り入れるメリットと難しさについてもまとめてみますね。
よろしければどうぞ。
欠点の扱い方は人によって違うもの
長くカウンセリングをさせていただいているとよく思うのです。
人それぞれで長所・欠点の扱い方って全く違うものだよね、と。
例えば、自分の良いところを知ったとき。
「うーん、私にはこんな良いところがあるのね♡」とウキウキする人もいれば
「いやー、私なんてまだまだですわ〜」と謙遜を超えてガチで認めない人もいますし
「え、それがなにか?だからなんだってーの?」と完全拒否反応を起こす人もいます。
これは欠点にも同じことが言えて
「まぁ誰にだって短所ぐらいあるよね。修正できるところは修正しよ〜」と思う人もいれば
「短所があるなんてありえない!絶対に修正しないとまずい!」と思う人もいれば
「もはや短所だらけで手がつけられません・・・」と思う人もいれば
「短所が分かったということはまた成長できるな!」と思う人もいます。
これは、各々育ってきた中で培われた価値観のようなものに影響されている場合も少なくないでしょう。
だから、まぁ欠点=愛されないと感じているのは自分だということになります。
これは「自分の問題なのだから自分だけでなんとかしろ」という話ではなく、「自分のこととして考えてサポートを受けると欠点の扱い方を変えることができる場合もあるよ」ということなんですけどね。
「欠点は愛される」という考え方を取り入れる難しさ
ただ、実際に「不完全でも愛される」「欠点はチャームポイントだ」という考え方を取り入れるには、それなりの難しさも存在すると僕は思います。
なぜなら「人は相手のことをよく知らないまま見た目で物事を判断してしまうことが多い」からですね。
かつ「相手の問題や欠点を相手の内面の問題と捉えてしまう傾向がある」からです。
(心理学では「根本的な帰属の誤り」なんて言葉が使われることがありますけどね。)
例えば、「同僚がよく予定を忘れる」という状況があったとしたら、その同僚の欠点は「相手の性格(内面)の問題」と考えやすいってことですね。
実際には性格の問題だけとは限らず、相手の置かれた環境、そうせざるを得ない事情、個性的な要素などの影響もありえるのですが、そこはなぜか省略され「全て相手の内面的な問題」とジャッジされやすいという話です。
しかも、その判断に疑問を持たないということもよく起きることなんです。
かつ、人は自分の価値観で相手を判断していることが多いわけですよ。
つまり「相手の欠点の扱い方」は「自分の欠点の扱い方」と似通ってしまうことが多いわけです。
例えば「相手に欠点があるのは、相手の性格の問題だと判断しやすい人」がいるならば、「私にこんな欠点があるのは私の性格の問題だと考えやすい」と言えるのかな、と僕は思うわけです。
自分についても他者についても、客観的な視点を持ってその事情を考慮しないとしたら、自分の欠点も「ダメなもの」と感じやすくなる。
だから、自分の欠点を他人にバカにされたり、責められたり、キモっと思われると感じるようになりやすいと考えられるわけです。
つまり、自分・他人双方の「欠点」について「自分がどのように判断し捉えているか」によって、「欠点とはどのようなものか」という価値観が決まるのではないか、と僕は考えているわけですね。
「欠点は愛される」と理解するメリットと、そのためにできること
欠点は愛されると理解することのメリットは「お互いに支え会える関係」を構築しやすくなることでしょう。
自分の強さ(長所)を使って相手の弱さ(欠点)を支える。
相手の強さ(長所)が自分の弱さ(欠点)を支えてくれている。
このように感じられるからこそ「共に生きる・支え合う」という感覚を感じやすくなりますよね。
逆に、そう感じることが難しいならば「全ては自分次第」となる。
つまり、自分が社会や他者から受け取っているものに気づけず、かつネガティブな意味での自立が強まるわけです。
だから「私を支えてくれるものや信じてくれるものはないもない」と感じやすくなるわけです。
もちろんそう感じることも理解されるべきことですし、そこにはきっと事情があるのでしょう。
ただ、「欠点は愛される」と理解することだけを考えるなら、「自分の考え方の偏りに気づくこと」が求められる場合が多いです。
特に「欠点はひどいもの」「欠点は性格の問題」「欠点は迷惑なものである」といった固定観念を手放す必要がありそうですね。
そもそもどうにもならない欠点って、自分でもどうしようもないことってないですか?
自分ですぐ修正できることならば、既に修正済である場合も多くないでしょうか。
実は自分で一生懸命隠している欠点も、相手に知られていることも少なくないでしょう。
自分の欠点を知られていたけど「それでもええやん」と扱ってもらえていることも少なくないんじゃないでしょうか。
逆に、もし「自分にはどうしようもない欠点が存在しているから愛されないのだ」と思うなら、「この世に自分を愛してくれる人はいない」ぐらい感じるようになっても不思議ではないわけです。(これもまた癒やされるべき気持ちだと思うのですけど。)
ただ、この前提には「自分の考え方、判断」の影響があり、そこは見過ごせない要素だと僕は思うのですよ。
よって僕は「自分を癒やすこと」だけでなく、「人を理解する」「人を許す」という視点をとても大切にするわけです。
人や物事を一面的に見て判断するのではなく、様々な事情、要素を理解することで多面的に物事を見つめることができるようになる。
それが結果的に「欠点は愛されたり支えてもらえるもの」と理解するきっかけになるわけですよ。
そもそも「欠点は愛されないもの」と理解しているのは自分ですからね。その自分の考え方、物の見方をどう扱うかが重要なんです。
この考え方をお互いに共有できる関係って、愛情や親密感を感じやすい関係だと僕は思うのですよね。
ただ僕は、人を許せないことや理解できないことを悪だ・問題だとだけ考えているわけでもないんですよ。
人はついつい偏って物事を見てしまうことがあるわけですからね。そこもまた理解されるべきことなんだと思います。
その上で「どんな自分でいたいか」を考えて実践していけば、欠点って愛されるんだと思えるんじゃないでしょうか。
ま、そうは言えども「人に欠点を見せる」って、やはり「恥ずかしい」という意味で勇気が必要ですけどね(^^;
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